コンプレックスからの解放とか最近のこととか
自分という人間は基本的にダウナーな人間だ。
学校の中でもうまくなじむこともできない、学生時代に満足がいく恋愛経験もできなかった。かといって就職活動で人に自慢できるような成果を得られたわけでもない。
成功体験の乏しい人間だ。
こういった成功体験の乏しい人間(ここでは非リアと呼ぶ)は、同じく成功体験の乏しい人間で集まりたがる。そしてそこに強い結びつきがあると信じ、心地よさを覚える。
僕もそういった経験は多くしてきた。
だが、あえて言う。それはただの傷のなめ合いに過ぎないと。
これは「傷のなめ合いに過ぎない」としっかり認識して関らなければならない。
色々言えることはあるのだが、そこにプラスになることは少ないと一言にしておく。
男にとって、モテないということはとても大きなコンプレックスになるのだ。
ある人は自由に女性と関係を持ち放題、またはそのように見えるのに対し、それ以外は一切関係が持てないのだ。
タイトルのコンプレックスからの解放はこのコンプレックスのことだ。
僕はこのコンプレックスを打破しつつある。
2,3年前だろうか。僕は大学生時代、好みの女性からことごとくフラれてしまうようなやつだった。そして、そういった痛みを同じような友達と飲みながら語るような、そこらへんにごくごくいるモテない大学生の一人だった。
そこから僕は誰に誘われるわけでもなくナンパに一人でのめり込んだ。
そして少しずつ女性との関係になれていく自分がいた。
そんな中、よくモテないエピソードを語りあった友達は変わらない生活を続け、次第に自分に対して避難すらする者すら出てきた。
「お前そんなことやって楽しいか?」「お前って人間の屑だな」
こういったセリフを吐いてくるのだ。
確かにナンパというのは迷惑行為だ。僕もこの意見には賛成で、ナンパで男を磨け、意識高い系ナンパだとか、真面目にナンパ、とかそういったクリーンなイメージでナンパしている人たちは大嫌いだ。ナンパが迷惑行為だという現実から目をそらしているからだ。
だがしかし誰からもよく思われていきていくことで、何かが得られるだろうか?
僕は得られないと思う。
ナンパをしていることを非難してくる人たちが、本当に正義の味方になっているつもりでその言葉を吐いているだろうか?いや、そうではないだろう。自分にとって何かしら面白くないから批判していると考える方が自然だ。
自分もリア充が可愛いこをやり捨てただの、彼女を乗換えただの話を聞いたとき、
全くナンセンスな主張で批判をしたことがある。こういった事をしたことがある人はかなり多いと思う。だがよく考えてみてほしい。その批判はどこからくる?
自分の意志でナンパを続け、今は彼女がいてセフレも何人もできた。別に自分が凄い腕のあるナンパ師だとは思わないし、むしろ成果の出方はかなり遅いほうだったと自覚している。
しかし、ここ最近街を歩くときにあったコンプレックスがなくなってきている。
前まではっきりと感じていた、恋愛至上主義にまみれた街中を歩く自分に、自信が持てている。
何人切りした、だとかは正直自分はどうでもいいと思っている。自分にとってナンパの目的であったコンプレックスの解放が達成されたのだ。
しかしその反面、欲とは怖いもので彼女と歩いていても、「あの子に声かけたい」とかそういった欲が自分を駆り立てるのと感じられる。そういう時、彼女とか付き合うのって意味あるのか?という問いが頭に浮かぶ。
非リアにありがちなのだが、付き合うとかめんどくさい、ということをいう。これは僕は持っていけない考えだと思っている。
というのも、自分もこういった考えをたびたび発言していた。
非リアの多くは自分の存在を真っ向から否定されるといてもたってもいられないのだ。
だから自分の恋愛経験のなさを肯定するために、付き合うという文化を否定したくてしょうがないのだ。
だが、今でも僕はこの恋愛至上主義の世の中はどこか狂っているかのように思う。
「え?彼女いないの?」このセリフは現代社会においてナイフ(笑)
恋愛してない=モテない。こういう風潮が世の中に存在し、学歴や経済力なんかよりも強いヒエラルキーを感じずにはいられない。
こんな世の中に非リアとして生きていたら、恋愛なんかするよりも適当にセックスしてたほうがいいですわ、と言いたくなるのも仕方がない。
だが、僕はあえて一度付き合う文化を受け入れる。なぜなら、セックスを武器に付き合うのを否定し続けることで、苦しむ自分の未来が見えるから。
また、いろいろ振り返るとあの子との関係はしっかり続けておけばよかったなぁ。とか思うこともある。初めは付き合いたい子とかもわからなかったのだから、大きな進歩だ。
何が言いたいかまとまらないけど、着実にいい方向に少しずつ向いている