僕が考えた幸せ
こんなタイトルをつけるとすごく純粋そうな考えや人が納得しそうな幸福観を語るのかと思ってしまうが、まったくそんなことはない(笑)
僕が今まで自分が幸せだと感じたときはすべて共通して自由を感じたときである。
初めて女性と付き合ったときも、「こんなレベルの子が俺と付き合っているのか」という普段感じているヒエラルキーからの自由を得た気がしたからである。しかしさきほどとは変わり、世間的にダメな行動を実現したときも幸せは感じた。部活をやめたときは、これから毎日イヤだと思っていた練習に向かわなくて済むと、すごくすがすがしい気分になった。バイトをばっくれたときもそれを感じることができた。さらに言うと、僕はTシャツにジーパンにスニーカーとかでビジネス街を歩くのが昔から好きだ。なんでだろうと昔から思っていたが、それはスーツと言う堅苦しい囚人服に身をまとっている人たちに比べて自由を感じることができるからだと最近わかった。
こんな風に自由を感じることに幸せを感じる。
ではホームレスになってもいいのでは?と自分に問いかけた。それはどこかで違うのだ。
そこで今まで幸せだったときの自分の境遇を思い出してみた。そう、そこにはすべて高見の見物ができる程度の余裕があるのだ。成績だったり、自分の周りの人間関係、そして何より本人の精神の安定。
ここで時々自分の中で論点にあがるのが結婚である。自分は小さいから結婚願望がほとんどない。家族は仲は普通くらいだが、なぜか見ていてあまり自分がしたいとは思わないのだ。つまり結婚生活への憧れというのが結婚をする動機にはならない。しかし、高見の見物という点を考えるとやはり結婚をしていたほうができるかもしれない。
結婚は間違いなく今男性にとって価値が下がってきている。それは二つの理由から言える。一つは女性の貞操観念が消えつつあるから。なんだかんだいって交際、結婚で得られる男性の権利として性交渉がある。これが簡単に出来てしまっているということだけである。
二つ目に、離婚率の上昇がある。離婚しない夫婦がいるのであれば、まだ結婚してお互いよかったように見えるが、別れてしまったのでは自分たちに失敗があったと認めているようなものである。(結婚を経験できたという点を除く)
三つ目にもともと結婚と言うのは紙に名前を書いて判子を押すだけの契約なので、人が勝手に決めたものであるがゆえに、人がやらなくなってしまえば一部の民族の風習と何の変わりもないのだ。
このような状況の中、そして自分の年齢から考えて10年後、今のところ結婚をするという選択はないのだが、自由と高見の見物というこの二点を考える題材にはよくなる。